Life story

様々な方言から見える人生
Nさん(仮名)
Nさんは1942年、日本の長野県で日本人の両親のもとに生まれた。しかし、幼くして母を亡くし、2歳の時に叔母(母の妹)とともに樺太へ渡る。インタビュー中、Nさんは叔母のことを「어머니(お母さん)」と呼んでいた。母親代わりであり、唯一の肉親だった叔母は、Nさんにとって大きな存在だったはずだ。そして叔母にとっても唯一の肉親だったNさんは、大きな心の支えとなっていたのだろう。
Nさんを連れて樺太の大沢へと移り住んだ叔母は、1945年に朝鮮半島南部、全羅南道出身の男性と結婚。Nさんには義理の父ができた。その男性は全羅道から日本に渡り、日本で仕事をした後に樺太に渡ってきた人であった。朝鮮人男性との結婚により、叔母は生活の中で自然と朝鮮語を身につけ、Nさんも幼少期には家庭で朝鮮語を使っていたという。そのためNさんの話す朝鮮語には、義父の影響で全羅道方言が混ざる。一家の食卓に上るのは朝鮮料理で、ご飯と味噌汁、キムチ、キムチと豚肉の炒めものなどをよく食べたという。
1945年8月、日本が降伏し、その後多くの在樺邦人が内地に引き揚げる中、多くの日朝家庭がそうであったように、Nさん一家も日本への引き揚げを断念した。朝鮮人である義父は日本へ渡れないため、一家が離れ離れになってしまうからである。
その後、叔母と義父の間には子どもが生まれ、Nさんには弟と妹ができた。Nさん自身は長野での出生記録があるため後に日本に永住帰国できたが、戦後生まれの弟と妹は日本に戸籍がなく、日本に永住帰国することができないのだとNさんは悔しがる。
小学校に上がる年齢になると、Nさんは朝鮮学校に通い始めた。しかし、Nさんが小学校3年生の時、義父が事故で亡くなり、生活は一変。Nさんは朝鮮学校を辞め、家計を支えるため、叔母が山でとってきた野菜を一緒に市場に持っていて売るなど、家の仕事を手伝うようになった。
その後、叔母は朝鮮人男性と再婚。2番目の義父がNさん一家を養ってくれるようになり、叔母も家で家事と育児に専念するようになった。
大人になったNさんは、23歳で結婚。夫もまた青森県出身の残留邦人であった。Nさんの夫は小学2年生までを青森で過ごし、父親の仕事の都合で樺太へ渡った。一家は恵須取の鵜城という集落で暮らしていたという。終戦直後、内地へ引き揚げるため家財道具一式を馬に載せ、汽車の出る久春内まで移動したが、汽車に乗り遅れて引き揚げが叶わず、一家はそのまま鵜城に戻って暮らしていた。その後、夫と夫の2人の妹はソ連の学校に通っていたため、兄妹全員ロシア語が流暢だ。夫は父親を早くに亡くし、家計を支えるため14歳から林務の仕事をしていた。
結婚当初は夫と姑と暮らしていたが、青森県出身の姑は自分の青森弁の訛りを「汚い」と言って、日本語を使いたがらなかった。そのため家庭内言語はロシア語となり、朝鮮語や日本語はあまり使わなくなっていった。
夫はずっと林務の仕事をしており、職場には朝鮮人のおばさんたちが多数働いていた。夫はおばさんたちの話す朝鮮語を聞いて理解はしていたが、自分で朝鮮語を話すことは恥ずかしがり、ロシア語を使っていた。朝鮮語と朝鮮文化の中で育ってきたNさんは、日々朝鮮料理を作ることで家庭内に朝鮮文化を残していたが、辛いものが苦手な姑や夫のために、なるべく唐辛子を控えめにした朝鮮料理を作るようにしていた。キムチを漬ける時も唐辛子を控えめにし、鰊やホタテなどの海産物を入れたキムチをよく作った。じゃがいもを使ったロシア料理もよく作ったという。
その後Nさんは息子と娘を設けたが、元より家庭内言語がロシア語だったこともあり、子どもたちは日本語も朝鮮語もほとんど出来ない。
筆者が朝鮮語でNさんにインタビューを行った際、Nさんの隣にいた娘が時々朝鮮語を聞き取って返事をするシーンがあり、Nさんは「조금 아는 모양이에요(少し分かるようですね)」と娘が少し朝鮮語を理解している様子に笑顔を見せた。
Nさんは1990年代に夫とともに船に乗って一時帰国を果たし、その後2年に1度、3年に1度と何度か一時帰国した後、2011年に孫娘(息子の娘)とともに日本に永住帰国した。最初の一時帰国の際に一緒だった夫は、病気のためサハリンで亡くなり、永住帰国は叶わなかった。
永住帰国したNさんは札幌に定着し、現在も札幌市内の団地で暮らしている。孫娘は札幌市内の大学に進学し、その後札幌で就職もしたが、数年前に体を壊してサハリンに帰った。孫娘は一人になってしまう祖母(Nさん)を気にしてサハリンに戻りたがらなかったが、職場で倒れ救急車で搬送されることもあり、Nさんがサハリンに帰ることを強く勧めた。
孫娘は現在はサハリンで結婚し、朝鮮系の夫と息子2人と暮らしている。孫娘は朝鮮系の配偶者を選んだが、孫の中にはロシア人と結婚した孫もおり、Nさんには様々なルーツを持ったひ孫たちがいる。
2023年に、一人で暮らすNさんを心配して娘夫婦が日本にやって来た。現在は同じ団地の別の部屋で暮らしている。娘婿もやはり朝鮮人で、娘婿の両親は韓国に永住帰国している。Nさん自身は韓国に一度も行ったことがないが、日本に帰国後、テレビで韓国旅行の特集を頻繁にやっていることや、韓国料理の紹介の番組などを見て、日本でこれほど韓国が人気な国であることに驚いたという。
結婚後、夫や姑のため家庭ではあまり食べられなかったが、Nさんは「속이 시원하게 되는(속이 시원해지는)(胃がスッキリする)」辛い朝鮮料理が好きで、テレビで韓国料理の特集を見ると思わず涎が出てしまう。
今では朝鮮料理を作ることは少なくなったものの、Nさんが暮らす家には韓国から取り寄せたキムチ冷蔵庫が家にある。キムチ冷蔵庫は今ではサハリンの韓国系スーパーで買うことができるため、サハリンの朝鮮系家庭には必ずあるという。韓国では「김치 냉장고(キムチ冷蔵庫)」と言うが、Nさんをはじめ残留朝鮮人の人たちは「김치통(キムチ樽)」(慶尚道方言の発音で「짐치통」と言うこともある)と呼ぶ。
Nさんは韓国食材や韓国コスメ、韓国の電化製品など、韓国製品専用の通販カタログを毎月取り寄せていて、時々韓国食材を購入している。中でもサハリンの市場で売られていた순대(豚の腸詰め)を思い出して時々食べたくなるが、日本で購入するととても高いため驚いたという。깻잎(エゴマの葉。Nさんは「깻이파리」と発音する)は最近は日本のスーパーでも売っていることがあるので、見かけたら買うこともある。
昔はキムチを自分で漬けていたが、最近はあまり食べなくなった。現在キムチ冷蔵庫に入っているのは、ロシアから孫が遊びに来た時にお土産に持ってきたイクラの缶詰やロシアのチョコレートだ。最近はなぜかロシア料理を食べたくなることが多く、ロシアから持ってきてもらったイクラや鰊の缶詰などをご飯と一緒に食べることが多い。
Nさんはそのイクラの缶詰を筆者に「家に帰って両親と食べなさい」と持たせてくれた時、「まだしばれてるからね(凍ってるからね)」と青森弁(北海道弁でもある)を使った。