アンソロジー

Anthology

Life story

先生になることが夢だった

関戸ナオ子(せきと・なおこ)

Татьяна(Таня)。

夢は先生になること

関戸ナオ子は、1954年、サハリンのポロナイスク(敷香)で生まれた。ポロナイスクは戦前から紙工場があり、多くの労働者が働いていた。戦後も朝鮮人、日本人、ロシア人の労働者とその家族が住んでいた。

幼い頃、家庭での言葉は日本語だった。日本人の父と母は家の中では日本語だけで子どもたちに話そうとしたが、子どもたちはロシア人や韓国人の子どもたちと遊びながらいつの間にかロシア語で話すようになっていた。学校の授業はロシア語で行われたが、それで困ったことはない。一年生の時から勉強が好きで、特に小学校のときはродной язык(国語)、中学校ではрусская литература(ロシア文学)が得意だった。勉強が得意で負けず嫌いだった。学校は年四学期制だったが、学期の終わりにテストがある。そこで4点をもらうことがあると、家に帰って母に悔し泣きをしていたという。5点が最高評価だったのだ。

ナオ子の夢は先生になることだった。でも、17歳のとき、家族の家計を助けるために高校を退学してミシン工場に就職した。実は、学校を退学したのにはもう一つの理由がある。高校時代の化学の先生が韓国人や日本人を嫌っていて、授業中にもナオ子にも嫌がらせをしたという。修了試験にも合格させないと言われた。落とされるのは嫌だった。それで学校を中退したのだ。ただ、中退を化学の先生のせいにするのも嫌だった。校長先生に中退の理由を聞かれても、家族を助けるためとしか言わなかった。

25歳のとき、夜間の高校に入り直し見事卒業した。そのときは化学で4点をもらったという。後のことになるが、ナオ子が学校で教えるようになってから、同じ職場にその時の化学の先生がいた。先生はナオ子に嫌がらせをしたことを覚えていなかったという。 ミシン工場では23年間働いた。大きい工場で、制服や布団や枕のカバーなどいろいろな製品をつくった。30人ぐらいの班のбригадир(班長)として働いた。だが、ソ連からロシアに変わり経済は悪化。1993年、工場は閉鎖に追いこまれた。その後はバザールで服を売ったりして家計を支えた。

先生として日本語や日本文化を教える

1999年、先生になるというナオ子の夢が実現した。ポロナイスクに日本サハリン同胞交流協会の日本語サークルがあり、ナオ子もそこで日本語の勉強をするようになった。そこで出会ったのが講師の高橋先生だった。高橋先生はポロナイスクの学校でも教えていたが、ユジノサハリンスクの学校へ移ることになり、ナオ子を学校の後任に推薦したのだ。たしかに先生になることは夢だったけど、大学で勉強したわけでもないし全く自信がなかった。でも高橋先生に「あなたは先生の資質がある。だからできる」と説得され、校長先生の面接を受けたところ、その場で合格。高橋先生からクラスを引き継ぎ学校で高校生のクラスで日本語を教えることになった。

最初はできるかどうか不安だった。でも、始めてみると、とても楽しかった。ワープロで練習問題を作るなど、教え方も工夫した。翌年からは小学生を教えるようになった。当時はサハリンで日本語を勉強したいという子どもも多かったのだ。 教師の仕事は楽しかった。日本へ一時帰国する際に、永住帰国していた姉の孫の小学校の授業を見学させてもらい、どうやって子どもたちに教えているか、研究したこともある。日本へ一時帰国した時に教科書や、浴衣をもらって授業に使ったこともあった。毎年子どもたちの合唱団をつくってコンサートで発表をするのだが、ナオ子が先生になってからはロシアの歌の他に「故郷」や「赤とんぼ」などの日本の童謡を発表するようになった。稚内からの客が参加したことがあった。緊張して「みなさま、ポロナイスクへようこそ」と日本語で言うのがやっとだった。

折り紙と出会う

折り紙と出会ったのも、一時帰国の時だ。2003年の一時帰国の際に稚内で見つけた折り紙作品に触発され、本を購入し、独学で勉強を始めた。日本語で分からないところは姑さんといっしょに学んだ。一年間勉強した後で校長先生に折り紙を授業にすることを提案したところ、許可が下りた。授業は2004まで担当した。サハリンで折り紙の授業をする学校は一つだけだったため、唯一の活動として高く評価された。サハリンで行われる子どもたちの作品展示会では、ポロナイスクの学校が一番をとった。夏休みの3か月間、民間が企画したラーゲリ(長期キャンプのような活動)では、サハリンの様々な地域から集まってきたおよそ120人の子どもたちに、朝8時から遅くまで折り紙を教えた。子どもたちがテレビに出たこともあったという。

当時、ロシアの学校では、教師が集まり授業の実践や成果を発表するという形式の試験があった。大学を卒業した教師は13段階、専門学校を卒業した教師は12段階で評価される。初年度はランク6から始まったナオ子の評価も、3、4年でランク12まで上がったという。だから、日本に永住帰国するために教師を辞めると行ったときは、みんなが驚いた。お別れパーティーでは同僚の先生たちがナオ子の永住帰国を祝ってくれたが、一方でどうして辞めるの?とみんなが尋ねてきた。「私は美しく去っていきたい。だからわすれないで」と冗談交じりに同僚たちに言った。先生たちは「ウォッカなおこ」と書いたウォッカをプレゼントしてくれた。

永住帰国。3年間、日本語が話せなかった

ナオ子が永住帰国を果たしたのは2006年だ。所沢の中国帰国者定着促進センターで6か月間日本語を学習した後、稚内市に住まいを選んだ。12月21日のことだった。稚内市に住んだ理由には親戚が先に定着していたこと、当時はサハリンへフェリーで簡単に行けたこと等がある。だが、フェリーの運航がなくなった今も稚内を選んだことに後悔はない。ポロナイスクから永住帰国した友人も多いし、稚内だったからこそ、ロシア語の講師ができたと思うからだ。

所沢で勉強を始めたばかりの頃分かったことは、自分が今の日本語をわかっていないということだった。サハリンで子ども時代に覚えた日本語と、子どもたちに教えていた教科書の日本語、所沢で勉強した日本語がそれぞれ違って戸惑った。発音が悪くて恥ずかしいとも思った。だから、その後姉とどこか集まりに参加するときも、他の人の日本語を聞くことしかできなかった。言いたいことがあっても、頭の中でロシア語を日本語に直しているうちに話は変わっていて、頷くことしかできなかった。こんな状態が2、3年は続いたと思う。

ロシア語の講師として

永住帰国の翌年、2007年6月から姉の紹介でユーラシア協会のロシア語講師として働き始めた。授業の初めにロシア語と日本語、お互いに勉強しましょうと受講生に伝えた。日本人にロシア語を教えるときは日本語で文法の説明をしなければならないときがある。だから、日本語を間違っても話さなければならない。最初の頃は自分の日本語が正しいかどうか分からず、自信が持てなかったが、受講生の皆と話すことによって次第に日本語が話せるようになっていった。教えることは楽しい。ロシア語の教え方を工夫したり教材を作成したりすることは、ナオ子のロシア語教師になりたかったかつての夢を実現しているようでもある。

その後、新型コロナ感染症蔓延の影響で、ユーラシア教会稚内支部の日本語講座が閉講になった。でも、当時勉強していた受講生から学び続けたいという要望を受け、オンラインでレッスンを続けることになった。今でも皆辞めないで続けてくれていることが嬉しい。受講生は、生徒であると同時に友だちでもある。年に2回はナオ子の家に集まってパーティーをする。そんなときはロシア料理をつくって皆をもてなす。ロシア語を学ぶ人々との関わりが、ナオ子自身の日本語の学びや、ロシア語を教える自らのアイデンティティを豊かなものにしている。この仕事がなかったら、自分はどうなっていたか分からなかったと思う。

コロナ感染拡大の影響でオンライン授業にはなったが、ナオ子は現在もロシア語の講師としてロシア語を学ぶコミュニティとの関わりを続けている。それがナオ子にとって日本語の学びの経験であり、生きがいでもある。ナオ子はこのように、ロシア語を教えることによって日本語を学び、ロシア語を学ぶ人たちとの親密なネットワークをつくりあげてきたのである。 また、数年前から年に一度、市民講座のひとつとしてロシア料理教師の依頼をされ、市民との交流をより深めている。



記事公開:2026年
文:佐藤正則
*本記事は、武蔵野美術大学共同研究助成の成果の一部である