Life story

高校行ったのは、61歳のときだよ
1944年、内淵(現ブイコフ)で生まれる。2000年永住帰国、稚内在住。
金川民子、キム・ミンジャ(김민자)、タチアーナ(Татьяна)
私は新しいのにチャレンジするのが好きです
「私は新しいのにチャレンジするのが好きです」。金川民子は、そう誇らしげに語る。永住帰国し、すぐに自動車部品を取り扱う会社で正社員として働く。また働きながら、通信制高校にも通った。退職後は観光ボランティアをしている。趣味は60歳から始めた社交ダンス。まさにチャレンジを続ける民子の人生を辿る。
3歳のとき、養子に出された
民子は、1944年、炭鉱の町、内淵(ブイコフ)で生まれた。父は朝鮮人、母は日本人だった。しかし、民子がそのことを知るのはずっと後のことだ。実父には兄がいたが、その兄夫婦には子どもがいなかった。そのため、民子は3歳のときに養子に出され、兄夫婦のもとで、実の子として育てられた。育ての両親はともに朝鮮人であったが、幼少期に樺太(サハリン)にわたり、日本の学校教育を受けたため、家庭では日本語を使っていた。養母は、朝鮮語はあまり話せなかったと言う。近所には日本や朝鮮の家庭がたくさん住んでいたが、幼少期はみな日本語で話していた。朝鮮語を話すようになったのは、朝鮮学校に通うようになってからのことだ。
実の両親の家庭には、妹が四人いた。近所で暮らしていたので面識はあったが、そこまで両家で往来があったわけではない。4歳下の妹、京子は、同じ小学校に通っていて知っていたが、いとこだと思っていた。1958年の後期引揚げのとき、実の両親の家族は日本へ帰国した。引揚げのあと、自分はその家の子なのだと養父に知らされた。

いつもどこかに自分は日本人だという気持ちがあった
高校を卒業した後、人に頼まれて、2年ほど中学校で働いた。教師ではなく、生徒たちの面倒をみるという仕事だった。19歳の時、ユジノサハリンスク教育大学に進学することを決めた。専攻は数学と物理だった。もともと勉強が好きで、成績も優秀だった民子は奨学金をもらいながら5年かけて卒業した。
高校からはロシア語が中心の生活で、友人もロシア人が多かった。そのため、日本語も朝鮮語も聞けばわかるが、自分からはことばが出なくなっていた。民子は実母が日本人であることを誰にも言わなかった。でも、いつもどこかに自分は日本人だという気持ちがあった。なぜ自分がそう思うのか自分でもはっきりとはわからない。幼少期に話していたことばが日本語だったということもあるのかもしれない。ときどきロシア人から、「おまえ、日本人だろ」と声をかけられることもあった。そういうときは、無視して返事をしないことにしていたが、なぜわかるんだろうと思っていた。そんなこともあり、民子は大学に通いながら日本語の学習サークルにも参加した。夜間のサークルで、自分以外はロシア人のおじさんだった。仕事で日本語を使うために学んでいた。そこで、ひらがなとカタカナは書けるようになった。 在学中に、朝鮮人の男性と結婚した。彼の方が民子に想いを寄せて強くアプローチしてきた。二人の間には娘が生まれた。大学卒業後、民子は子育てをしながら、自動車会社の経理として働いた。夫となった男性とはうまくいかなった。子どもが成長し、物心ついたころ、あんな父とは別れた方がいいと後押ししてくれた。子ども一人なら自分の収入で育てることもできると思い、離婚を決意した。
夫婦で永住帰国
48歳のとき、民子は、金川英男と再婚する。再婚同士だった。あえて再婚しなくてもいいかと思ったが、英夫が結婚を希望したので、了承した。英男は民子が大学生のころからの知り合いだ。元々、英男の前妻と仲が良く、英男ともよく会っていた。英男と前妻の間には二人の息子がいたが、彼女は癌で若くして亡くなってしまった。まさか自分が英男と結婚することになるとは夢にも思わなかったし、いまさらしなくてもいいのではないかと悩んだが、母親を亡くし、男三人で暮らすのは大変だろうと結婚を決めた。
英男の父親は朝鮮人で、母親は日本人だった。後期引き揚げのとき、母親は父親と英男を残したまま日本に引き揚げてしまった。当時、そのような家庭も少なくなかった。父親を早く病気で亡くし、英男はいつか母親に会いたいと思っていた。やがて一時帰国事業が始まると、母親に会うために一時帰国した。残念ながら母親は他界していたが、親戚に会うことはできたという。一方、民子は、自分は日本人だと感じていたが、そのことを他人に言ったことはなかった。戸籍上の両親も朝鮮人だったので、一時帰国に参加したこともなかった。2000年に英男が日本への永住帰国を決めると、民子はその同伴家族という形で来日した。

家族の再会
英男と民子は永住帰国し、所沢の中国帰国者定着促進センターで研修を受けた。来日するとすぐに実母と連絡をとることができた。母も自分に会いたがっていると聞いた。妹の京子に会わせてくれるようにお願いしたが断られた。母はすでに重病を患っていたそうだ。母はそのまま他界し、再会は実現しなかった。民子は、京子たちが自分と会いたくないのだと感じ、もう二度と会うことはないだろうと思った。
日本サハリン同胞交流協会(後の日本サハリン協会)の金成さんの勧めで、稚内で暮らすことになった。よく晴れた日は、宗谷岬からうっすらとサハリンの地が見える。その距離は約43km、当時はまだコルサコフと稚内の間でフェリーも運行されていた。サハリンに残してきた息子、娘と近いところがいいだろうと金成さんは言った。 夫婦で稚内に移住したが、1年すると英男は事故で他界してしまった。そのこともあり慌ただしく過ごしていた民子は、妹の京子に連絡することもなかった。すると2003年、京子が夫や友人と一緒に訪ねてきた。もう会えないと思っていたので、本当にうれしかった。それから今でも京子との交流は続いている。自分も岐阜県で暮らす京子に会いに行ったり、一緒に母の墓参りに行ったりしている。

道民税だって、全部自分で払ったんだ
民子は、稚内に来てすぐに仕事を始めている。当時の稚内はロシアンバブルに沸いていた。多くの船が港に泊り、街ではロシア人をよく見かけた。現在も稚内の街中には当時の名残としてロシア語の看板が残っている。彼らはカニなどの水産物を売りにきて、中古車や車の部品、電化製品、日用雑貨を買っていく。先にサハリンから永住帰国し、稚内で暮らしていた家族が、車でロシア人を案内していた。民子は無理を言って自分もその車に乗り込んだ。車の部品屋に行ったとき、欲しい部品を通訳してあげると社長に「ぜひうちで働いてくれ」と言われた。もともとサハリンで車関係の仕事をしていたので自信もあった。車の用語はカタカナが多い。トーションバーと言っても普通の日本人はそれがなんだかわからない。でも、自分にはわかる。プロとして仕事がしたい、できると民子は思った。 その会社は、数ヶ月働いて辞めた。ロシアの顧客と社長の間にトラブルがあり、社長がロシア嫌いになってしまったので居心地が悪くなった。そんなとき、他の車関係の会社で通訳のできる人を探していると聞き、それなら自分がやると自ら売り込みに行った。英男には「そんなことするもんじゃない、生意気だ」と怒られたが、自動車に関する専門的知識があり、日本語とロシア語がわかる自分が適任だと考えた。結局、その会社に正社員として、58歳から72歳まで、14年間勤め上げた。道民税だって、全部自分で払ったんだと民子は笑う。
勉強で得たものは誰にも奪うことができない
実際、日本の会社で働くと大変なことも多かった。日本語もそんなに自由に話せるわけでもなかったし、漢字の読み書きもあまりできなかった。一緒に働いている社員の多くは、自分よりずっと若い。日本語ができないことで笑われることもあり、それが悔しかった。ロシアで大学まで出て、自動車関係の仕事を長年してきた自負もある。馬鹿にされたくないと、札幌にある高校の通信課程に入学することにした。高校行ったのは、61歳のときだよと民子は得意げにいう。 民子は4年間かけて通信課程を修了した。仕事と勉強の両立は本当に大変だった。昼間は仕事し、夜勉強する。ほとんど寝られなかった。漢字は、辞書でひとつひとつ確認しながら覚えた。書き順まで覚えたという民子は実に達筆だ。科目で最も苦労したのは、歴史だった。サハリンではロシアの歴史を学んでいる。日本の歴史はほとんど知らなかった。固有名詞も漢字も多い。それでも民子は勉強が好きだという。勉強は、誰のためでもない、自分のためのものだ。勉強で得たものは誰にも奪うことができない、自分のものだ。


稚内に来てよかった
高校の同窓会に参加すると自分より二つ上のAさんと出会った。彼女は長くタクシーの運転手をしていた。彼女に誘われて、稚内市の観光ボランティアになった。1年に1度の試験に合格して「観光マイスター」の資格を取得した。観光客が来ると美味しいお店に案内したり、稚内のマラソン大会のボランティア・スタッフをつとめたり、お祭りで踊ったりとアクティブに活動している。今の親友も観光ボランティアで知り合った。年齢は少し離れているが、みんなからは姉妹のようだと言われる。
60歳から始めた社交ダンスは、今でも大切な趣味だ。毎週、地域の社交ダンスサークルで踊るのが楽しみだった。コロナでサークルが解散してしまったので、旭川まで電車で4時間かけて踊りに行く。ダンスで鍛えた足腰は丈夫で、80を迎える今でも民子の背筋はまっすぐと通っている。 日本に来て、稚内に来て本当によかったと民子はふりかえる。母の故郷を見ることができた。稚内の人は親切だ。困ったことがあっても、市役所の人や稚内日ロ経済友好協会のスタッフが助けてくれる。もちろん大変なこともあったけど、まわりがみんな優しくて、助け合ってきたからここまでやってこれた。

記事公開:2025年
文:三代純平
*本記事は、武蔵野美術大学共同研究助成の成果の一部である。


