アンソロジー

Anthology

Life story

ロシア語は財産!

加賀谷瞳
ハン・ウォル・スン Хан Вол Сун オリガ、オーリャ

マカロフで生まれ育つ

 加賀谷瞳の母は1935年に樺太の大泊(現コルサコフ)で生まれた。両親が幼い頃になくなったため、姉に育てられた。4人きょうだいの末っ子で、戦後、きょうだいの家族は日本へ引き揚げたが、母はサハリンに残った。終戦時は裕福な日本人夫婦の家に住み込みで奉公に出ていたという。どうして日本に帰れなかったのかはよくわかっていない。
瞳は1962年、マカロフ(旧知取)で生まれた。川北と呼ばれていた集落で、50ほどの家族がそこで暮らしていた。日本人の母と韓国人の父、5人のきょうだいと共に暮らしていた。川北の集落は韓国系の家族がほとんどで、日本人がいる家族は3、4家族しかなかった。だが川北集落の韓国人は戦前の日本時代に日本語を使っていたため、日常の韓国語に日本語が混ざっていることも多かった。日本時代から住んでいたおじいさん、おばあさんは日本語で話していた。たまに遊びにくる隣のおばさんと母は日本語で話すこともあった。
 幼い頃、瞳は母と日本語で話していたと思う。母が「ごはんだよ」「おやすみなさい」などの言葉を使ったことを記憶している。父親は、働き者だったが、家では無口で、あまり話した記憶がない。家庭の外では、友達とは韓国語で話していた。後からわかったことだが、人参、玉葱、キャベツなどのことばは韓国語だと思って使っていた。
 保育園に入るとロシア語を使うようになり、あまり韓国語は使わなくなっていった。母が日本語で話しても,次第にロシア語で答えることが多くなった。学校から帰ってくると瞳たちきょうだいは,学校でのことをロシア語で話す。でも母はロシア語も理解していた。母は日本語、ロシア語、韓国語、すべて堪能だったのだ。自分の子どもたちをロシアの学校へ行かして、何かあった時には、先生たちとロシア語で話さなければならない。そういう気持ちがロシア語学習に向かわせたのだと思う。
今思えば、幼少期に母親が日本語を使ってくれたことが、来日後の日本語習得の支えになったと瞳は語る。

民族は違ってもみんな仲良しだった

 子どもの頃は、どこも大家族で、家の鍵を閉めることもなく、互いの家を行き来していた。近くの川でマスを手づかみでとることができた。家庭で野菜を作っていて、キムチを漬けたり、スンデを作ったり、素麺を作ったりしていた。食生活は、基本的に韓国風だった。畑があったので、キャベツや白菜、大根も家でつくった。6月になると兄弟で菜を採りにいった。大きいリュックに50キロ、100キロぐらいとった。塩味にして樽に置いておき、食べるときに少しずつ出して使った。瞳がロシア料理をつくるようになったのは結婚してからだ。
 学校に入ると、クラスには、ロシア人や、ウクライナ人、韓国人がいた。母が日本人ということは誰も知らなかった。韓国人だとみんなは思っていた。1クラス40人ほどで、その中で韓国人の生徒は4人くらい。民族は違うが仲はよかった。ロシア人の家庭に遊びに行くと、自分の家では食べることができないボルシチやピロシキなどロシア料理が食べられたので、とても楽しみだった。それぞれの家庭で異なる味があった。反対にロシア人が瞳の家に来たときは、みんな箸は使えないのでフォークでキムチなどの韓国料理を喜んで食べていた。子どもの時は、ルーツの違いはあまり意識しなかった。みんな違うけれどみんな同じ人間だと思っていた。子どもの時の経験は自分にとって宝物だ。

所沢で良く家族や仲間と集まった。真ん中が瞳。

カレーの思い出

 小学校1、2年の時だと思う。冷戦時代で日本のものは手に入らない時代だった。ところが、母がどこからかカレーの粉を手に入れてきたのだ。瞳はカレーというものを初めて見た。子どもたちは声を揃えて「何これ。こんなくさいものどうしてつくったの?」と言った。母が日本のおいしいものだよというので、おそるおそる食べてみた。なんともいえない味だったのを覚えている。
 しばらくして、母が何かの祭りのときに、またカレーをつくった。そのとき、「ああ、カレーだな」と思った。前のような変な匂いはしなかったので食べた。そして母が3回目につくったときは、とても好きになっていた。それからは、母がカレーをつくるのを心待ちにするようになった。マカロフでいちばん最初にカレーを食べたのは自分の家だと思う。ちなみに、カレーを食べることが増えてきたのは、一時帰国が始まり頻繁に日本に行き来できるようになってからだ。その頃は家庭料理というよりはパーティーメニューのひとつだった。

パスポート

 子どもの頃、家によくロシア人が来て、ロシアの国籍を取るように勧められた。他の家庭は、ロシア国籍をとらないでいることが多かったが、瞳の家は、すぐにロシア国籍を取得した。他の家庭は、ロシア国籍を取ると兵役に行かなければいけないので、取らないでいたが、母親は、ロシアに生きている以上、それも義務ならば行くべきだと考えていた。男兄弟3人は、皆兵役にいった。そのことで、就職などはスムーズだった。28歳以上、あるいは子どもが二人以上いると兵役は免除されるので、次第に他の家庭もロシア国籍を取り始めた。
 当時は、16歳になるとロシア人には「パスポート」(身分証)が与えられ、それがあるとロシア中自由に行き来できた。国籍がないと、他の都市に行くためには、許可証が必要であった。自分は、「パスポート」を持っていたので、ウラジオストクに自由に行くことができた。
 1979年、17歳のときに瞳は学校を卒業した。ブレジネフの時代だ。ウラジオストクの大学の試験を受けたが落ちてしまった。マカロフに戻ったが,あまり仕事をするところもなかった。1年間、仕事をして、もう一度大学に挑戦するつもりだった。仕事場は服をつくるアトリエだった。そこで働いてるうちに韓国系の夫とつきあうようになり、1年ほどつきあっているうちに、両親から結婚するように言われ結婚した。

魚の加工工場で働いていた時 1
魚の加工工場で働いていた時 2

一時帰国から永住帰国まで

1984年にサハリンから一時帰国した日本人の男性がいた。そのことが地元青森の新聞に取り上げられた。それを見た青森に住む母の姉が市役所に電話して男性に会うことができた。そして妹(瞳の母加賀谷成子)の名前とただマカロフに住んでいることだけを伝えた。奇跡のような話だが、その男性がサハリンに帰国後、たまたま訪れた家が瞳の母の家だった。男性が「ここに加賀谷成子という人がいますか」と言ったところ、そこに母がいて「はい、私です」というやり取りがあったという。マカロフにいる日本人は少なかったから、男性は目星をつけてきたのかもしれない。その結果、母は姉と連絡が取れるようになった。姉からの招待状をもらい、1986年についに母は一時帰国を実現した。そのときは次男を伴っての帰国だった。
 1989年にも一時帰国したが、その時は、長男と瞳が同伴した。2回目は、母は千葉のもう一人の姉のところにいった。バブル経済のまっただ中で、店の売り場には沢山の商品が並んでいて驚いた。サハリンには何もない時代だった。スーパーでみかんを買ってもらった。サハリンでは中国産のみかんが正月だけ売られるという貴重な果物だったのだ。カレー以外の日本料理は、食べられなかったが、日本に来て初めてラーメンを食べたところ口に合い、滞在中はラーメンばかり食べていた。そのあと青森に行った。当時、ロシアは物資が不足していた。石鹸も手に入らないと言ったら、箱で石鹸をもらった。船だったし、荷物の制限などもまだなかったので、それを持ち帰り、近所に配ったら、とても喜ばれた。香りがとても良い石鹸だった。同じものは今、見つからない。 
 2003年に永住帰国した。当時、ロシアの状況は良くなく、物資も不足していたし、治安も悪化していた。その頃、中国から仕入れた青果を小売店に卸す商売をしていたが、うまくいっていなかった。同じエリアで商売をしていたアゼルバイジャンの人は商売が上手で、自分には競えなかった。母親の友人も日本や韓国に永住帰国するようになったため、母親はとても孤独になり頻繁に体調も崩すようになっていた。口癖のように、日本に帰りたいというようになった。瞳は瞳で母についていこうかどうか悩んでいた。ロシアは泥棒は多いし、子どもたちのことを考えると、ロシアにいては将来がないのではないかと思えた。夫とも離婚していた。そこで、日本に行こうかと母親に漏らしたら、途端に母はサハリン日本人会に電話して、手続きを始めた。3ヶ月で帰れるようになったが、自分の準備が間に合わず、3ヶ月伸ばしてもらった。長女は、大学3年、次女は、12歳。次女は、泥棒がいないと聞いて、日本に行きたいと言った。当時、次女の目の前で瞳がひったくりに遭ったり、家に泥棒が入って家財一切を盗まれたりしたこともあったのだ。それで外を歩くのが怖くなっていた。長女は悩んでいたが、最後には行ってもいいと言ってくれた。
 埼玉県所沢市にあった中国帰国者定着促進センターで4ヶ月間日本語を学んだ後、母の希望で、定着先を函館と決めた。ちょうど所沢から函館に来たとき、雨が降って天気もよくなかった。子どもたちは「この町に住むのは嫌だ」と泣いた。母は喜んでいるが子どもたちは嫌だと言っている。そこでみんなを座らせて、1年間は良くても悪くてもここに住もう。1年後ダメだったらみんなでサハリンに戻ろうと約束した。そして1年後、夏休みに子どもたちだけをサハリンに行かせた。子どもたちは、日本に住むことを選んだ。
 瞳の母にとって、日本は故郷だ。だが瞳にとって故郷はサハリンであり韓国にアイデンティティを感じていた。だが日本が大好きだった。行ったら何とかして上手くいくんじゃないかと思っていた。それがよかったと思う。好きになるといろいろなことが上手くいくようになると思う。

永住帰国の時の様子

ロシア語は財産

 日本に来て3年間は、自分はほとんど日本語が話せなかった。子どもたちは比較的すぐに話せるようになった。自分の日本語が上達したきっかけは、函館新都市病院の事務長の金子さんに働くように言われたことだった。ユーラシア協会の紹介で、病院を訪問するロシア人のアテンドをしていた時にスカウトされた。医療ツーリズムに力を入れるので、ロシア人の通訳をしてほしいということだった。2006年から2008年まで務めた。仕事は大変だった。ただ、それがとても勉強になった。ロシアから患者が来た時に検査後医者との話を正確に通訳しなければならないので病気の名前など正確に覚えなければならない。こういう検査して、こういう病気が見つかって、こういう治療しなければいけないと、病気のことを全部教えなければいけない。ただ、先生たちは易しく説明してくれた。それを全部ロシア語で書いて患者に説明する。サハリンで病院長の秘書のような仕事をしていたことが大いに役立ったと思う。
その後、サハリンと函館を結んでいた航空機の直行便がなくなり、来る人も減ったことから、自分から辞めた。その後は、フリーで通訳の仕事をしている。今でも札幌の病院に行くロシア人から頼まれたり、函館の造船会社などから頼まれたりしている。日本に来て最初は大変だった。子育てが終わるまでは、子育てに必死だった。ようやくひと段落し少し落ち着いた。日本語とロシア語が分かる人が函館にはいない。それが生活の武器になり仕事も見つかり、今までやってくることができた。そういう意味でロシア語は財産だと思う。

医療関連の通訳をしていた時