Life story

仲良くしてきたから、生きてこれた
大段春子
1947年、ブイコフ(旧、内淵)で生まれる。2005年永住帰国、東京都在住。
大段春子 김춘자(キムチュンジャ) Люба(リューバ)
「仲良くなければ、力は出ない」
10人きょうだいの7番目、四女。写真は、2015年、船橋できょうだい全員が初めて一堂に会したときのものだ。その後、姉、兄が相次いで他界し、最初で最後のきょうだいの集合写真となった。この後、みんなで一緒にすいかを食べたんだと春子は姉の秋子と懐かしそうに語る。春子の父の口癖は、「仲良くなければ、力は出ない」。サハリンでも日本でも、きょうだいで、家族で、助け合ってきた。仲良くしてきたから、生きてこれた、と春子は自身の人生をふりかえる。

大好物のカレイを食べないから
大段という姓は母方の姓だ。春子の母親、トミノは、叔母のところに養子に出された。その叔母の姓が「大段」だった。実は、父親の長次郎の出自についてはよくわかっていない。家では、日本語をずっと話していたが、12歳の時、朝鮮半島から北海道に両親と移住したらしい。ただし、韓国で調べたこともあるがルーツはわからなかった。戦後、サハリンの朝鮮コミュニティでは、キムデシク(김대식)と名乗っていた。
両親の間には長男と長女がいた。1939年、両親は2人を祖父母(両親の養父母)に預けて、次女初子と次男光男だけを連れて樺太に渡った。初めは3年くらい働いたら北海道に帰るつもりだったという。三男の正男が生まれ、三女の秋子が生まれ、生活の基盤が樺太にできてきた。やがて、ソ連の侵攻があり、北海道に戻ろうとするが、光男が急性肺炎に冒されてしまった。母親は、一番の好物だったカレイを一生食べないから、光男の命を救ってほしいと神様にお願いしたそうだ。その祈りが届いたのか、光男は一命を取り留めた。母親はその後、生涯カレイを口にしなかった。父親と光男もカレイを食べることはなかった。
自然と食べ物
父親は炭鉱で働いていたが、炭鉱が閉鎖され、木を伐採し、生計を立てるようになる。春子はブイコフで生まれたが、ブイコフでの記憶はない。記憶があるのは、ドリンスク(落合)郊外のソヴェツコエ(相浜)に引っ越してからだ。父親は、一日中、木を切り、枝を落として積み上げる。春になるとその木を川に流して、大きな町に運んでいた。丸太で小屋を建て、家族はそこで暮らした。一帯の木を切り終わると、さらに山のほうに入っていき、そこに新しい小屋を建てた。小屋は狭く、冬になると隙間から雪が吹き込んできて寒かった。部屋の真ん中にあったドラム缶を横にしてつくったストーブに身を寄せて温まったのを覚えている。
生活は貧しく、厳しかったが、つらい記憶ばかりではない。子どもの時の記憶は「自然と食べ物」についてばかりだと春子は笑う。山、川、草木、すべてが美しかった。そこを父親の隣でクマよけの缶をカンカン叩きながら歩いた。男兄弟たちは、川で釣ったイワナを自慢げに見せにくる。春子は姉妹で、ラズベリー、ゼンマイ、アイヌイモ(山芋の一種)などを採ってきた。母は、料理が上手な人で、釣ったイワナでお汁を炊いたり、ラズベリーのジャムでクレープをつくってくれた。母はなんでも自分でつくる人で、味噌や醤油も自家製だった。子どもたちもそれをみて、自然につくり方を覚えた。
朝鮮学校時代
春子は5歳で朝鮮民族学校に入学した。学校は家から遠くで通うのが大変だった。雪の降る冬は馬にそりをひかれて通った。田舎で人数も多くなかったから、入学の年齢はバラバラだった。クラスには2歳年上の子もいた。父の教えで、家庭内では日本語で話すことになっていたが、近所の子どもたちとは朝鮮語で話すこともあった。だから、朝鮮民族学校に入って、ことばで苦労したという記憶はない。春子は、キムチュンジャ(チュンジャは、春子の朝鮮語読み)の名前で通っていたが、親しい子からは春子と呼ばれていた。家族でも日本語で話していたため、周囲も日本人だと認識していた。しかし、そのことでいじめにあったり、嫌な思いをしたりしたこともない。自分ときょうだいたちは日本人であることを明かしていたが、当時、多くの人は、自分が日本人であることを隠していた。日本人の母親が自分を捨てて日本に帰ってしまったという子もいた。だから、お互いに、朝鮮人か、日本人か、詮索するということはしないようにしていた。後になって、一時帰国が始まると、ああ、あんたも日本人なの、ということがたくさんあった。
父は人付き合いがよく、近所の人がうちに集まってきた。今思うと、両親は2人きりで樺太に渡り、親戚が1人もいなかった、そういった寂しさもどこかにあったのではないか。そんなうちだったので、自然と子どもたちも集まってきた。兄の友だち、姉の友だち、自分の友だちが入れ替わり、立ち替わりやってきた。母は友だちが来ると必ず何か食べものを出してくれた。友だちは、おいしい、おいしい、こんなおいしいもの初めて食べると言ってそれを頬張った。
ロシア語の先生
朝鮮学校時代、高麗人の先生は非常に厳しく、よく叩かれた。自分の意見を言うことは許されず、いつも緊張感があった。そんな中、春子が唯一好きだったのがロシア語の先生だった。大陸から来たロシア人の先生で、小柄でとても優しい女性だった。春子がはしかにかかりフラフラな状態で学校に行くと、青リンゴをくれた。おそらく大陸から取り寄せたものであろう。サハリンではリンゴが育たず、春子はその時、初めてリンゴというものを口にした。いまだにその先生の優しい笑顔が脳裏に浮かぶ。
その先生のおかげで、ロシア語が好きになり、学校の図書室にあったロシア語の絵本や物語をよく読んだ。父も、ロシアで生きていくために、ロシア語を学べと子どもたちに言っていた。
ロシア学校
朝鮮学校に7年通った時、朝鮮学校が廃止になって、ロシア学校に移ることになった。ロシア学校は大変だった。ロシア語が好きで、朝鮮学校時代から勉強してきた。また、ロシア人たちの前で朝鮮語を使うと、悪口を言われたと思ったのか、怒鳴ったり嫌がらせをしてくるロシア人も多かったため、学校の外ではロシア語を使うことも多かった。だから、ある程度の日常会話はできるようになっていた。
しかし、歴史や地理のことばもすべてロシア語になり、内容自体も朝鮮民族学校で学んだことと同じではなかった。数学さえもロシア語でやると難しかった。そのため、授業についていくことができず、苦労した。結局、朝鮮民族学校から移った生徒たちは春子も含め全員留年した。
英語の先生
春子は、高校を卒業すると、ユジノサハリンスク教育大学に進学した。朝鮮民族学校時代のロシア語の先生に憧れていた春子は、英語教師になることを決めた。本当は大陸の大学に通いたかったが、そんなお金はうちにはなかった。春子は成績が優秀だったため、奨学金をもらうことができた。わずかではあるが、奨学金をもらい、すでにユジノサハリンスクで働いていた兄のアパートに住まわせてもらいながら大学に通った。
大学を卒業すると、3年間は政府が決めた場所に勤務しなければならなかった。最初、ウズモリエ(白浦)に配属され、2年勤めたあとユジノサハリンスクの中学校に移った。ソ連時代、医者と教師の給料は最も安かった。ものをつくり出さない仕事だからと言われていた。だから、「心を込めないと仕事はできない」と春子は言う。生徒のことを想い、自身の仕事に生きがいを感じなければ続けられない仕事だった。ソ連時代の教師の仕事は本当に大変だった。40人の生徒を我が子のように面倒見る必要があった。
酒に溺れた両親のいる子どもの家まで様子を見にいったり、生徒一人ひとりの進路が決まるまで指導したり、毎日が忙しかった。教師の給料だけでは生計が立てられず、副業をすることもあった。また、朝鮮人の男性と結婚していたが、親戚付き合いや行事の手伝いなどもやらなければならなかった。「いつだって、女が大変、本当につらいのはいつも女だった」と春子とは語る。大変だったが、やりがいもあった。春子は、教師時代の自分を誇りに思っているし、今でも教え子たちとの関係は続いている。
元吉との再婚
最初の夫と離婚して、しばらくすると、現夫の元吉(백용태、ベクヨンテ)と再婚した。ドリンスクにいた頃、兄の光男と正男の友だちだった元吉とは何回か会ったことがあった。その後、元吉は両親と共にユジノサハリンスクに引っ越したため、ずっと会っていなかったが、兄を通じて、縁談がまとまった。元吉は前妻と死別していた。元吉は、朝鮮人の家庭に8人兄弟の長男として生まれた。家は貧しく、下のきょうだいを養うために若い時から働きに出た。
本当は写真家になりたかったそうだが、ジャガイモを拾ってなんとか食べている暮らしの中で、カメラを買う余裕などなかった。春子と再婚した頃は、内装の仕事をしていた。元吉は、サハリンの朝鮮人男性にしては珍しく、家事を積極的にやってくれた。春子が教師の仕事で忙しかったので、料理をつくってくれたり、掃除をしてくれたりした。元吉にも春子にも前配偶者との子どもがいたが、元吉は分け隔てなく接した。周囲からは元々一つの家族だったみたいだと言われた。
ロストフ移住
1993年に父が他界した。母も体調を崩し、サハリンの厳しい冬では長生きできないと考え、姉の秋子と黒海沿岸の街、ロストフに移住した。春子は、1997年、50歳で教師を退職した。当時のサハリンは50歳から年金をもらうことができた。子どもたちもサハリンで自立していたので、春子は、元吉と共に母と姉の暮らすロストフに移住することにした。ロストフは温暖な気候で畑では野菜や果実がよく育った。すいかもサハリンでは見たことがない大きさになった。母は、1998年に春子たちに看取られ亡くなった。
永住帰国
2004年に兄と姉が日本に永住帰国した。すぐ上の姉の秋子までは終戦前の生まれだったので、永住帰国の対象者だが、戦後生まれの自分は違うと思っていた。一番下の息子が結婚することになって、結婚式に参加するためにサハリンに行った。体調が悪かったので式が終わってから病院に行くと乳がんと診断され、すぐに手術しなければならなくなった。ロストフに戻ろうかと思ったが、姉の秋子に、面倒見てくれる子どもたちのいるサハリンに留まるように諭された。
その後、日本に帰国した秋子から、春子も永住帰国の対象になるらしいとの電話をもらった。術後、体調も不安であったため、医療体制の整った日本に行くことを決めた。元吉も日本に行くことを賛成してくれた。
帰国後、北海道で暮らす長兄と長姉にも会うことができた。長男の条市は三男の正男とそっくりですぐにお互いが兄弟だとわかった。お互いの幼少期の思い出を語り合うと、食べた魚、遊び、いろいろ共通点があり、まるで一緒に暮らしていたかのような気持ちになった。春子たちは東京に居を構えたが、お互いに行き来したり、食べ物を送りあったりと、兄や姉が元気だったころは連絡を取り合った。3人の妹はロシアで暮らしているが、頻繁に、テレビ電話で話をしている。
震災のときは、教え子たちも心配して連絡してきてくれた。元吉は、念願のカメラを買い、写真を楽しんでいる。春子は、いろいろ大変だったけど、家族で助け合い、人にも恵まれ、自分は幸せだ、日本に来てよかったと話してくれた。

(文:三代純平)