アンソロジー

Anthology

Life story

お腹が空いている人がいたら、ご飯を一膳あげる

淡中詔子(たんなか・あきこ)

1944年、塔路(シャチホルクス)で生まれる。
2000年永住帰国、函館在中
詔子(アキコ)소자(ソジャ)、Соня(ソーニャ)。

それは宝物なの

詔子(アキコ)、소자(ソジャ)、Соня(ソーニャ)。多くのサハリン残留日本人がそうであるように淡中詔子もまた三つの名前を持っている。そんな詔子は、「韓国人でもない、ロシア人でもない、日本人でもない、自分は何人だかわからない」とその揺れ動くアイデンティティについて語る。それは詔子さんにとって長い間、重くのしかかってきた。だが、一方で、三つのことば、三つの文化を越境しながら得たものも多い。「それは宝物なの」と自分の人生を彼女はふりかえる。

母とともにサハリンに残る

1944年、詔子さんは、父・稔男,母・キノの間に生まれた。父は、詔子が母のお腹の中にいる時、炭鉱で働くため九州に行き、戦中の混乱で生き別れた。1945年の8月、ソ連が樺太(現サハリン)に侵攻してきた。真岡(現ホルムスク)の港に行けば、本土に引き揚げられると聞き、母は1歳になった詔子を連れて徒歩で目指した。しかし、詔子は途中、栄養失調になり、蚊に刺されたことが原因で感染症を患ってしまった。そのため、母は帰国を断念し、詔子を病院へと連れて行った。そのため、今でも詔子は自分のせいで母が日本に帰国できなかったという思いがどこかにあるという。

詔子を入院させた母は、炭鉱で弁当を出す仕事をした。そこで出会ったのが義父になる崔圭貞(최규정:チェギュジョン)であった。母に一目惚れした崔は、何かと母娘の世話を焼いてくれた。やがて、母は崔との子どもを身籠った。授乳すれば情が移って日本に帰れなくなると思った母は、生まれた赤ん坊を置いてしばらく布団をかぶって耳を塞いでいた。近所のおばさんが見かねて諭し、授乳すると母は、「これで日本に帰れなくなった」と涙を流したという。その後、母は崔と結婚し、名を崔キノとした。毎年、子を授かり、詔子には7人の弟妹がいる。

鳥はいいね。どこでも行けるし。

1949年に詔子の家族は上恵須取の小さな村に引っ越した。父は家族を食べさせるために農業を始めた。韓国でも農業をしていた父は朝から晩までよく働き、近所からはクマさんと呼ばれていた。大根、じゃがいもなどの野菜をつくったり、山菜や魚をとる自給自足のような暮らしだった。父が建てた小屋のようなうちで古いストーブや井戸があったことを今でも覚えている。詔子は弟たちの面倒を見ながら、自然の中で育った。それは貧しいながらも小さな楽しみもある暮らしだった。

しかし、母は、畑で草取りをしながら「鳥だ!アキちゃん見て、鳥飛んでいるよ。秋だから国に帰るんだよ。鳥はいいね。どこでも行けるし」と言った。その時は幼くて母のことばの意味がわからなかったが、どれだけ帰りたかったのかと思うと今でも胸が締め付けられると詔子は語る。

朝鮮学校時代

恵須取の街中に引越し、小学校に通うようになった。終戦後、2年くらいは日本学校が残っていたが、すべて朝鮮学校に置き換わっていた。大陸から来た高麗人の先生が教鞭を取っていた。日本語を使う厳しく叱られ、時には叩かれることもあった。詔子は朝鮮語がほとんどわからなかったので、最初は本当に苦労した。先生の言葉がわからず自分だけ教室に取り残されてしまって泣いたこともあった。結局1年生を2回やることになった。

それでも、負けん気の強かった詔子は朝鮮語を一生懸命勉強し、3年生になることには、朝鮮語で詩を書くまでになっていた。「木を植えよう」(나무를 심자)と、幼少期の自然の中で暮らしを謳った詩は今でもぼんやりと覚えている。やがて朝鮮語は詔子さんにとってもっとも好きなことばとなり、朝鮮学校の先生になることを夢見るようになった。

仕事、結婚、母との別れ

1962年、詔子は、ユジノサハリンスクにある朝鮮学校の先生になるための師範学校に入学した。1年勉強したころ、母が病気で倒れたと知らせを受け取り、実家に戻る。そして、まだ小さな妹たちの面倒を見ることを決意し、退学した。奇しくも同時期にサハリンにあった朝鮮学校がすべて閉校となることがソ連の方針で決定した。

詔子の最初の仕事はデパートの横にあったキオスク(小さな売店)で靴下やハンカチを売る仕事だった。そこで初めて本格的にロシア語を覚えた。その後、レストランや病院、裁縫工場などたくさんの多くの職場を経験しながら、家族の面倒を見てきた。

1965年、22歳のとき、朝鮮人の夫と結婚し、長女を授かるが、夫は67年に交通事故で他界。69年に今の夫である柳建造(リュ・ゴンジュ)と再婚した。2人の間に娘1人、息子1人を授かった。

母は糖尿病と心臓病を患っていた。当時、大泊(現コルサコフ)で暮らしていた詔子さんは、北朝鮮国籍であったため、市外への移動が制限されていた。ようやく許可をもらい、久しぶりに恵須取の母に会うと、きれいだった肌は灰色くなり、まるで別人だった。もう長くはないと覚悟した。翌年、母は倒れ、病床に臥していると詔子さんに「アキちゃん、私、長生きできないよ。長生きできないから、私死んでも、あなたが日本に住むようにがんばるから」「私、神様にお願いして、あなたが日本に住むように、私の代わりに住むようにお願いするから」と言った。

その後、母は、すぐ下の弟が暮らしていたウズベキスタンの病院で治療を受けたが、1985年に息を引き取った。弟が生まれた時、授乳を拒んだことを謝りたくて最後は弟の側に行ったんだろうと詔子は語る。ロシア国籍を持っていた弟妹もウズベキスタンに行き、母を見送ったが、詔子さんは北朝鮮国籍のために行くことは叶わなかった。義父も同年、後を追うように他界した。

一時帰国

母の願いが届いたかのように、1988年に「平和の船」がサハリンを訪れ、小川岟一を中心に一時帰国を促進する運動が起こった。90年になると日本から弁護士などが来て、残留日本人を探すようになった。当時、日本人であることを隠して暮らしている人も多く、お互いに日本人であることを知らなかった。周りは日本に帰れることを歓迎していたが、自分は帰りたいとは思えなかった。母はもういないし、日本語も忘れてしまった。そんな自分は日本人とは言えるだろうかと詔子は自問した。しかし、周囲の勧めもあり、亡き母の想いだけでも日本にいるはずの親戚に伝えようと一時帰国を決意した。

実は母から日本にいる親戚に渡してほしいと日本語の手紙を預かっていた。何が書いてあるかは読めなかった。弟妹たちは母が日本に帰りたがっていたことを知ると寂しがると思い、手紙のことは誰にも言っていなかった。その手紙と母の髪、爪をハンカチに包んだものを大切に胸にしまい、一時帰国に途についた。

親戚に会うことができたら、手紙を渡して、母の遺髪を日本の地に埋めてもらいたい。そう詔子は思っていた。しかし、周りの一時帰国者たちが続々と親戚と会いに行く中、自分は行く場所がなかった。みなはっきりとは言わないが母方の親戚が会うことを拒んだのだということは雰囲気で察した。

浅草の浅草寺にお参りに行った時、ロウソクで手紙に火をつけて、それを線香にまいて、髪の毛も線香を立てるところに入れた。泣きながら歩いていると、一斉に鳩が詔子の周りに集まってきた。「あなたの親戚が来ているんだよ」と隣にいた日本人が言ってくれて、救われた気持ちになった。すると連絡が入り、急遽、北海道の親戚が会ってくれることになった。今すぐ飛んで行こうとする詔子をみんなが落ち着くように諭したという。会ったのは、実父の弟だった。お互い言葉が通じず、ただ抱き合って、別れた。次、来日したとき、叔父はすでに他界していた。

永住帰国とその後

やがて永住帰国が始まると、周りにも日本に帰国する人や自分に帰国を勧める人も多くなった。しかし、日本語も知らない、日本文化も知らない、そんな自分が日本に帰ってどうすればいいか。詔子は2年ほど悩んだ。しかし、夫の建造の後押しがあり、2000年に永住帰国を決めた。住む場所は、一時帰国のときに訪れ、サハリンに雰囲気が似ていると思った函館に決めた。

帰国直後は日本語ができないことで苦労も多かった。日本の文化に馴染めず、近所付き合いに悩んだこともあった。しかし、ロシア語教室や通訳を手伝ったりしながら徐々に日本語も覚えた。最近は、近所の人たちと温泉に行くのが楽しみだ。

4年前に次女のリーラが両親の世話をするために来日した。リーラも最初は日本語で苦労したが、最近は、近所のベーカリー・ショップで働き始め、日本語も上達した。
家族での会話でも、ロシア語、韓国語、日本語で溢れている。それは、サハリンのことばなのだ。

サハリンでは、日本人だといじめられ、日本でもことばがわからないでいじめられたこともある。いろいろな文化に挟まれて、自分が何人だかわからないときもある。でも、サハリンにいたから、日本に来たから、ロシア、韓国、日本のことばと文化を学ぶことができた。それは、私の宝物なの、と詔子はいう。サハリンでも、日本でも苦労があった。でも、たくさんの人に助けられてきた。だから、今、自分も困っている人がいたら助けてあげたい。お腹が空いている人がいたら、ご飯を一膳あげる。そんな気持ちで毎日を過ごしていると詔子は笑った。

(文:三代純平)