History

大泊港から豊原駅まで
樺太の古い写真を持ってサハリンへ
日本がサハリン南部を「樺太」と呼びながら統治していた時代に建設されたさまざまな施設が、今もなお各地に残っている。これらの施設は、年月の経過とともに自然の風化や人為的な破壊を受けつつも、歴史の「記憶」を宿した姿で今に至っている。それらは当時の形を完全に保っているわけではないが、特有の歴史性を保持し、地域住民の心に根付いて景観の一部を成している。筆者は、かつての写真を手がかりに、この地域の「記憶」をたどりながらカメラを構えるというプロジェクトに取り組んだ。
この連載の目的は、過去と現在が共存するサハリンの都市景観を通じ、歴史の流れによって形成された記憶の層を探ることである。時を経て変化した都市の姿は、単なる過去の痕跡にとどまらず、現在も生き続ける歴史の一部として新たな意味を持っている。本連載では、写真を通して過去と現在を対比し、それぞれの視点から歴史性を再解釈する体験を皆様にお届けしたいと思う。

日露戦争(1905)の間、日本軍はコルサコフを占領すると楠渓町(クシュンコタン)に軍政署をおいて統治し始めた。樺太庁が現れる時期には、楠渓並びにその北部の栄町が大泊の中心地として発展していった。栄町の海岸に仮桟橋が置かれて人々の出入りが始まると海運会社の事務所、郵便局、ホテル、行政施設などが置かれた。そして、栄町から内陸に進むと軍事・治安施設が置かれるほかにも料理店や商店が並んで、すぐ日本人が多く滞在する「日本町」(のち、本町)として市街を形成して行った。南の楠渓町、北の栄町、そして両町を繋ぐ本町を囲んでいるのが神楽ケ岡である。
コルサコフ港(旧大泊港)


コルサコフ中央の高台(旧、神楽ケ岡)をダチナヤ通り(Улица Дачная)に沿って進むと、「家族、愛と忠誠の広場」(сквер Семьи, любви и верности)にたどり着く。ここは日本統治時代に「千歳ヶ丘」と呼ばれ、1925年に裕仁皇太子(後、昭和天皇)が樺太を視察した際に訪れた場所でもある。ここの展望台を訪問したことを記念して、「皇太子行啓記念碑」が設けられた。この聖地化された「千歳ヶ丘」から見える港は、昔は大泊港と呼ばれ、樺太の主要な玄関口として都市の発展に貢献した。「千歳ヶ丘」の先端に立つと、手前に広がる港区域や、向こうに連なる丘を囲む陸地が見渡せる。この風景は、日本統治時代に行われた都市開発の痕跡として残され、現在のコルサコフ港を中心とした都市景観を成している。
コルサコフ港の桟橋


大泊港の桟橋は鉄橋で繋がれており、その先には荷役作業に使われるクレーンや駅舎が設置され、多くの人や物資の輸送拠点として機能していた。かつては桟橋の先に旅客用の駅舎も建てられ、港内を利用する人々にとって重要な施設であったが、何度かの建設と焼失を繰り返し、現在はその姿を留めていない。今でも当時の面影を残すのは貨物を運搬するためのクレーンだけであり、往時の賑わいを想像させる証人のように静かに役割を果たしている。
港町の繁華街を経て


日本統治時代の大泊港に上陸すると、すぐに栄町と呼ばれる賑やかな繁華街が広がっていた。港を通して押し寄せる人々や貨物が集まるこのエリアは、まさにその名の通り大泊で最も活気に満ちた商業地であり、繁盛する商店や飲食店が立ち並び、歓楽街としても知られていた。樺太を訪問した人々は、ここで新しい土地の熱気(もしくは寒気)や文化に触れ、栄町の賑わいに圧倒されながらも心を躍らせたに違いない。樺太に初めて足を踏み入れた多くの人々が、栄町を経て大泊駅へと向かい、その途中で目に焼き付けた港や歓楽街の活発な光景を胸に抱きながら、豊原に向かう列車に乗り込んでいた。
豊原駅に着く


日露戦争直後の日本軍による軍政期に、樺太に運ばれる軍需物資は大泊を経由して豊原(現在のユジノサハリンスク)に届けられた。物資と人々の移動を円滑にするために軽便鉄道が敷設され、この交通網は豊原を樺太の中心地として発展させる重要な役割を果たした。1928年には、豊原駅を起点として西海岸の真岡駅を結ぶ豊真線が全区間開通し、豊原は樺太内の交通と物流の中枢としての役割を担う準備を整えた。
つづく